6月15日号
「あっという間に、私の戦後五十年の半世紀が過ぎました。
思いだせば戦争の余韻いまださめやらぬ昭和二十四年。
雨の多い季節の六月十日。バランス・シート一つ読めず、
会社経営者としての個人の認印すらも所有せぬ無学独身。二十七歳の一人のアプレゲール(戦後派)が同志数人と相諮り、新宿西口の旧・淀橋浄水場跡地にあった木造二階建貸し部屋の一室で呱々の声を上げ、社員五十名を採用し、当行の前身の金融会社を経営しだして、本年六月で満五十年を経過いたします」◇以上は、『軌跡五十年』と題して「講演、論文、対談、インタビュー集」等を三部作の大作にまとめた東京相和銀行・長田庄一会長の「感謝・五十年に寄せて」の挨拶文の書きだしである。「その間、私は常に当行の経営陣の中に身を置いて、当行の発展を指導してまいりましたが−云々」と挨拶文は続くのだが、「朝鮮戦争」「インフレ」「所得倍増論」「東京オリンピック」などと政治・経済の状況説明は続くものの、「世のため、人のため」の言葉は一つも見当らない◇昭和四十年の山一倒産と証券界不況。平成三年までの右肩上がりの経済成長。そしてバブル経済の崩壊による大不況に見舞われ云々−と続くが、同・東京相和銀行が、公共性のある地域金融機関としての「役目柄」の説明は、一行たりとも見当らないのである◇長田会長は挨拶の前文で自らも語る通り、二十七歳の無学独身から今日の“財”をなした−まさに立志伝中の人物なのだが、金融事業家ではあったが、バンカーではなかったと言えよう◇途中、銀行経営の実権を譲るか、さもなければ、経営の“軌道修正”をするか。その辺の判断を全く誤ったようである。