「歴史発掘」

2021年2月25日号

日本民俗学の柳田國男が
明治期の産業組合「模範定款」を起草

柳田國男

信用金庫の濫觴(らんしょう)とも言える明治期の産業組合の『模範定款』を民俗学者・柳田國男(写真:Wikipedia)が起草していたことは、あまり知られていない事実なのでここに記録として残しておきたい。
今から3年ほど前、NHK第2ラジオの番組「ラジオアーカイブス・声で綴る昭和人物史」を聴く中でたまたま柳田と産業組合との関わり合いの話が出てきて少し驚いた。
『遠野物語』『木綿以前の事』などで知られる柳田國男(やなぎた くにお・1875年〈明治8年〉7月31日─1962年〈昭和37年〉8月8日)は「日本民俗学」の父。
人類学の一分野だったものを人類学から切り離して「日本民俗学」というひとつの学問体系を作り上げた。
柳田が明治33年(1900年)東京帝国大学法科大学を卒業後、農商務省に入省してから全国の農山村を歩くきっかけとなった話を紹介する。
以下、放送内容の中の産業組合に関係する柳田の話を録音から正確に書き起こしてみた。

「何かこう静かな所で生活するような学問がしたいと思ってですね、林学のほうへやってみようと思ったんです。
ところが林学というものは非常に数学が要るんですねえ。どうも僕、数学パスしそうにもないもんだから、それからまあ農業でもやろうかしらと。
それで私は、大学に入る時には政治科に入ったんですけども、入ってから中でちょうどその頃、農政っていうアグラルポリチックって言いますが、その農政の先生が帰ってきましてね、西洋から。そしてハイカラ極まる講義をするんですね。
僕は卒業したのは(明治)33 年なんだから31年ぐらいですね。
その時に『ほかに行く所がないもんだから、あそこに行ったんだろう』なんて冷やかすけど、そうじゃなくてですね、農政ってものがやりたくてあそこ(農商務省)を狙ったんですよ。
そしたらちょうどあそこが法律を少しも使わないようなお役所だったんですね、技師ばかりでやるような。農商務省の農務局農政課って言うんです(笑)。
その農政課に入れてもらってね、農政課のほうでは大変歓迎してくれましてね。いろんなことに関係しました。
その時に初めて日本に農会ってのができたんです。村にも村農会。農会法というのが出たんです。
それはもう私が入った時には議会を通っとりました。
それから産業組合法というのが出てきてね。それは何遍もやったあげくに新しいのがやっと通りました。
それで施行規則だけ作っておったんです。それで新たに(産業組合を)作らせるのに『模範定款』ってのを作らなきゃいけない。定款をね、あてがうんですね。とても彼らに書けないから。 『模範定款』を作ってくれないかと言うんで僕は入るなり、すぐその『模範定款』っていうものを作る役をしましてね。
それでしたがって、どうしてもこの農会法とそれから産業組合法とをやらなきゃいけないことになった。それでやってたんです。それで満足しとったんですよ。
その時分に僕は、柳田の家の跡を継ぐことになってね。それでその家から通うんですから月給を小遣いにするような幸福な身分だったもんだからね。苦労しないであそこにおったんです」。

2年後、その有能さゆえに柳田は内閣法制局に異動することになった。

「大変、農商務省では嫌な顔をしました。もう少し働くというところで仕事が残ってんのに連れて行かれちゃったもんですからね。
けど、それでも私は心持ちは変わらないで法制局という所におってもですね、しょっちゅう農会のほう、それからこの産業組合なんかのほうに好意を寄せてました。
それがやっぱり旅行をするひとつの因縁になったんだろうと思います」(昭和35年1月4日放送のNHKラジオ第2放送「私の自叙伝」より、括弧内は本紙補足)。

都内の古い信用金庫の歴史を調べていると東京都公文書館に設立当初の信用組合の「設立趣意書」が残されている場合がある。
添付された定款は、タイプされたもので組合名や出資金額など所々が括弧の空欄になっており、そこに組合名称などが手書きで記入されているのだ。
最初は気にも留めなかったが、考えてみれば「そうか、役所が用意した書式に穴埋め記入したのだな」と合点がいった。
その『模範定款』をそもそも起草したのが柳田國男であったということは、豆知識というより、それ以上のものかもしれない。(H)

〘音声データ:リンク〙